【著者プロフィール】
伊藤智典・理学療法士。青年海外協力隊(JOCV)隊員として2004〜2006年までエチオピアで活動。2007年から渡英。

ターニングポイント

 私は東アフリカのエチオピアに2004年から2006年まで滞在して、ゴンダールという街の大学で理学療法学科の設立に携わりました。現地の様々な経験は私の概念を覆し、言葉通り私のターニングポイントになりました。今回は、一般病院で勤務していた私がどういった経緯で協力隊に参加したのか、そして実際に派遣される前と派遣後の"訓練"について触れたいと思います。

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協力隊に参加するまで

 私は四国の高知県の産まれで、高知医療学院で理学療法を学びました。卒業後は愛媛県、今治市の第一病院(真泉会、放射線)という一般病院で6年間勤務しました。職務内容は、整形外科や胸腹部外科術後、また内科系疾患の患者さんを主に、臨床の基礎を学びました。毎日患者さんの様子や環境の移り変わりが激しく、また恵まれた上司の下で勉強に励むことが出来たので、仕事に飽きることはありませんでした。

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青年海外協力隊参加のきっかけ

ある日ふと、元々の夢であった青年海外協力隊を思い出しました。気がつけばもう26歳です。「このままで良いのか、挑戦するなら今しか無いのではないか。」 今後の人生について多く悩んだ末、2005年の秋、愛媛県で一次試験を、二次試験は東京都の広尾青年海外協力隊訓練所(現JICA地球ひろば)で受けました。一次試験は適性と英語の筆記試験、二次試験は面接と健康診断でした。面接試験の際に希望国を聞かれ、活動予定内容が私の経験に即していたパプアニューギニアの病院を第一志望として答えました。残念ながら第一志望は通りませんでしたが、合格したことを上司の山崎先生に伝えた所、とても喜んでくださいました。その後、派遣予定先が大学であることを理由に退職し、高知県の平田会平田病院で勤務をしつつ、卒業校で半年間、聴講生として授業の見習いをしました。そして派遣前訓練が始まりました。

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青年海外協力隊の派遣前訓練

 派遣前訓練は79日間、福島県の二本松訓練所で行われました。今どき、"訓練"という言い方は少し堅くて古臭いと思われるかも知れませんが、早朝から体操とマラソン、帰ってきたら食事を取り、朝礼を受けて英語を勉強する150人規模の共同生活と聞くと、規律正しい"訓練"であると納得が出来るかと思います。訓練所にはアジア、アフリカなどを中心に様々な国へ行く隊員が集められており、語学棟では日本語が禁止され、さまざまな国の言葉が入り混じっていました。語学勉強以外には、異文化を理解する為の訓練、国際協力の基礎、縄編みや散髪技術、犯罪対策の知識や対策他、選択科目で宗教の授業も受けました。また、ワクチン接種も義務付けられており、約2週間に一度、注射を受けました。どれもこれも普通の理学療法士には馴染みのないようなものばかりでした。訓練中、他国へ行く修了式では隊員代表の大役を頂き、拙い挨拶を披露しました。訓練が終わる11月、二本松市には雪が積もっていました。

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青年海外協力隊の派遣後訓練

 日本を出発後、ドイツのフランクフルトで飛行機を乗り換え、エチオピアの首都アジスアベバへ到着。海外初体験だった私は、緊張と興奮が入り混じったような気持ちでした。到着して数日後、派遣後訓練が始まりました。アジスアベバは2500m程度の高地なので当初、歩いて20分程度のJICA事務所へ行くのも一苦労だった事を覚えています。派遣後訓練はエチオピア公用語であるアムハラ語の基礎を中心に、実際に買い物へ行ったり、食事をしたりなど、日常に役立つ会話の練習をしました。また、健康的な生活の基礎知識、犯罪事情他、ビレッジステイと呼ばれる、僻地で1週間、現地人家族と暮らす訓練も含まれていました。私の暮らした家族の家にはシャワーがありません。毎日虫に刺された上、唐辛子を多用する現地食を食べた一週間は本当に辛いものでしたが、現地の生活を知る上で非常に効果的な訓練だったと思います。

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アフリカの医療事情

 アフリカは日本から遠いので、なかなか想像しにくいかも知れませんが、WHOのStatiscal Information System(http://www.who.int/whosis/en/)やUnisefの年次報告などから、アフリカの保健・医療に関する情報が得られます。サハラ以南に位置するアフリカの国々は、特にAIDS/HIVが蔓延している地域であるといわれています。

 近年の保健・医療に関する活動の発展などによって、世界的に5歳未満の子供の死亡率は減少して1000万人以下となり、またHIVに感染している人々の伸び率は過去の予想値を下回るなどのいくつかの成果を得た一方で、サハラ以南のアフリカ地域では16%の子供が5歳未満で亡くなり、先進国のその率、0.6%と比較すると大きく異なる事が分かります。統計の方法や各国の状況の違いにより、数値は必ずしも正確であるとは言えないようですが、日本とアフリカの医療事情を比較すると、アフリカは非常に脆弱な地域であるといえます。

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エチオピア(正式名称:エチオピア連邦民主共和国)医療事情

 エチオピアは、世界的に最貧国の一つであると言われています。人々はコーヒー、メイズ、テフなどの農業を主要産業としているため、天候によって影響を受けやすく、近代における旱魃や飢餓による深刻な被害は日本でも良く知られています。

 健康的な生活は環境によって影響を受けます。例えば、エチオピアの人々の平均寿命は50歳以下と言われ、世界トップクラスの平均寿命(80歳以上)の日本と比べると約30年の違いがあります。これは肉中心の食文化や、緊急時の医療体制、衛生状態、熱帯系の病気などが関与しているようです。

 医師の充足率はもちろん低く、診察を受ける為に2日、3日歩いてくる人々も沢山おりました。エチオピア人の半分以上はキリスト教徒であると言われ、病気になると、教会へ行って祈る人々もいます。薬が届かない、人工呼吸器はあるけれど酸素がない、検査器具を直せる技術者がいないので数ヶ月壊れたままで経過しているなど、医療自体というよりは、それを取り巻く環境が非常に深刻です。

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エチオピアの理学療法事情

 2001年からVolunteers Service Organization(VSO)が関与してゴンダール大学付属病院に理学療法科が設置され、大学に学部設立が検討されました。2004年からは私が参加し、2006年には、エチオピア初の理学療法士85名が卒業しました(当初4年制だったが、政策転換により3年制へ短縮された)。

 この他、都市部では海外から来たボランティアの理学療法士によってトレーニングを受けた理学療法アシスタントと呼ばれる人々が、クリニックや病院、美容関係で勤務をしている事もあります。

 首都アジスアベバにあるティクルアンバサ・ハキームベット(ブラックライオン病院)ではこの度、25名程の理学療法士を採用し、国内で最も大きいリハビリテーションセンターを設立するそうです。また、理学療法における必需品として杖、車椅子、義肢、装具などがあげられますが、これに対しては全国各地に工場があり、画一的に作成して配布するほか、有る程度オーダーメイドとして作成する為、各地をキャラバンのように廻る義肢装具サービスもありました。

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エチオピアの理学療法士が関わる疾患

 エチオピアでよく見た小児の疾患としては、先天性内反尖足や脳性麻痺、火傷などです。地方では今でも焚き木を用いて料理をしている人々が多く、小児の火傷は深刻な問題です。

 成人ではエイズ発症後・結核菌感染後の認知・身体機能障害、銃器損傷後の骨折、切断ほか、ハンセン氏病も治療対象でした。最近では、マラソン王国エチオピアならではの、スポーツ系疾患も増えているようです。

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エチオピア、ゴンダール大学(Gondar University)

 ゴンダール大学は創立50周年を過ぎた大学で、イギリスの女王が来訪して病気の為の研究所を建てた所から歴史は始まると言われています。
 首都から飛行機で約3時間、車だと一日半ほど北へ行き、アムハラ州のバハルダールを越えると、中世ヨーロッパ風の城を有する古都に辿り着きます。
 それがゴンダールです。ゴンダールに入るとすぐ、右側に大学のマラケ・キャンパスが見えます。
 メディカル・ヘルスサイエンスやコンピューターサイエンスなどたくさんの学部がある、国内有数の大学です。

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エチオピア、ゴンダール大学の理学療法学科

 前回述べたように、理学療法学科はVolunteer Service Organisation(VSO)によって始められ、その後、United Nation Development Program(UNDP)、Japan Overseas Cooperation Volunteers (JOCV=青年海外協力隊)が参加し、多国籍な講師陣で運営されました。
 私は学部の管理や授業のみならず、実習地確保や国内混乱時における学生の対処まで、さまざまな事を経験しました。学生の多くは発言する権利を有する為、試験終了後の学生に対する対応も勉強になりました。
 私は呼吸器関係の理学療法を指導しており、オーストラリア人講師のJulieやオランダ人講師のBasと協働して授業にあたることもありました。

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エチオピア、ゴンダール大学病院の理学療法科

 大学病院内は、外科、内科、整形外科、小児科、産婦人科、眼科などに分かれ、理学療法科においては、身体障害を持つHIVや結核の患者、爆弾・銃弾損傷後の患者さんに対応していました。
 外来患者の多くは歩いて来る事が出来る人でしたが、僻地から来た患者さんは次の日の治療を待つ為に軒下で夜を過ごす事もあり、理学療法以上に途上国において必要な事の多くを考えされられました。
 また、理学療法士は消炎鎮痛薬の処方も認められており、リハビリテーションという枠組みに囚われない治療を行う事が出来ました。
 理学療法科では現地人理学療法アシスタントを3人雇っておりましたが、文化の違いからかカルテや本の管理、また勤務体制の計画(急な欠勤など)がどうにもうまくいかず、とても苦労しました。

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エチオピア、アイケル、チルガ地域でのCBR活動における理学療法士の活動

 地域紛争によってある時期から行けなくなりましたが、スーダン国境近くのアイケル、チルガという地域へCommunity Based Rehabilitation(CBR)の為に出張していました。

 そこでは先天性内反尖足の小児に対してギプスの巻き替えを、脳性麻痺児の家族に対してハンドリングやシーティング指導などを行い、時にハンセン氏病の治療も行いました。
 またエチオピアの手話は日本と異なり、意思疎通が困難でした。基礎教育を受けていない人、公用語を話さない種族の人々もおり、協働したCBRスタッフの重要性を認識しました。

アイケルヘルスセンター

アイケルヘルスセンターの写真

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